古道の歴史は古く、建武四年(1337)四月に足利尊氏から松山保(まつやまほ)の地頭に任じられた仁木義有(にきよしあり)の書状では、鎌倉幕府の重鎮北条義時の領地でした。このことから、古道としての長い歴史がうかがわれます。
この道が関東へ通じる道として、より重要さを増したのは、永禄三年(1560)より関東出陣を14回もくりかえした上杉謙信とそのあとを継いだ景勝の時代です。
謙信は、関東管領(かんれい)上杉憲政を助けて小田原北条氏と戦いました。その後謙信は、上杉の家名と管領職をひきつぎました。
天正六(1578)年、謙信が突如死去したのち、後継者争いで越後は大争乱となり、六日町の坂戸城と春日山を結ぶ郷土の古道の村々も騒然となりました。この戦さは上杉景勝の勝利で終わりますが、慶長三年(1598)一月をもって戦さと軍用道はなくなります。
その後、慶長八(1603)年、徳川幕府政治がはじまり、この地域も大名支配が続きました。高田藩主 松平光長が越後騒動で領地を没収されるまでには、街道の整備が進み、宿場制度が着々と整えられました。戦国期の犬伏村は武将その他兵卒の住む村でしたが、この頃になると農民の村となり、犬伏、松代、蒲生村は宿駅村に指定されました。また、松代には陣屋(代官所)も設置されていました。
また、この頃になると、ようやく一般庶民も自由に旅に出かけるようになりました。
現松之山町の年番(ねんばん)庄屋家資料に、松之山並びに魚沼、刈羽、三島辺りより伊勢参宮、五智、善光寺参詣または病気療養(湯治)の名目で通行人の報告書があります。寛保三、延享二年(いづれも1740年代)に年間130人から180人ぐらいが移動しています。
さきの松平光長が領地を没収されると、郷土は徳川幕府の直接支配をうけるようになり代官所も廃止されました。
しかし、江戸時代、代官や巡検使の視察や時宗、遊行上人一行の通過の際には宿駅村だけではなく郷内全村の負担がかかりました。